Symposium on Early Modern Japanese Values and Individuality (2013)

歴史と宗教を語りなおすために : 言説・ネイション・余白 Isomae, Jun'ichi 2013-08-28

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歴史と宗教を語りなおすために-言説・ネイション・余白  磯前順一外の作用としての内。あらゆる著作においてフーコーは、まるで船が海の襞ででもあるかのように、外の襞にほかならない一つの内という主題につかれていたように思われる。-ジル・ドゥルーズ                               批判のポジショナリティこれまで自分は、実証主義的な色彩とユング心理学的な解釈の混じりあった土偶研究、聖典論および解釈学を取り込んだ記紀研究、蔵書の思想史と受容の美学を援用した垂加神道論、さらに宗教概念批判論と国民国家論の視点からの近代日本宗教史など、さまざまな研究対象と方法に関わってきた。しかし、そのどれを通しても、既存の学問の枠の中に収まることができなかった。収まりのつかない私というものをつねに意識せざるを得ない状況のなかで、「言説」とよばれる人間の認識のあり方を作り上げている枠組み、あるいは「学的言説」とでもいうような、それを学問的なかたちで概念化した枠組みがどのようにして構築され、学問的世界の共同性、ひいては日常性がどのように構築されているのか。自分がなんらかのかたちで帰属する「日常世界の構成」、あるいは自らが依拠する学問のはらむ「真理と方法」の関係について、批判的な関心をもたざるをえないようになってきた。自分の学問を成り立たせしめている方法や言説がどのようにして出来ているのか。考古学や記紀研究について言えば、いわゆる日本の始原を探求するという情熱がどのようなところから出てくるものなのか。宗教研究について言えば、いわゆる宗教的な希求性がどのように形作られ、そのなかでいかにして私たちの歴史的あるいは宗教的な志向性が方向づけられてきたのか。歴史的な起源、あるいは宗教的な超越性や土着性など、自分たちの問題関心のあり方がどのようにして学問という形をとって現れてきたのか、しだいにそのようなことを考えるようになってきたのである。今日、盛んに論究されているのが「ネイション」や「国民国家」の問題—このふたつの言葉のもつ意味の違いは明確に把握されるべきだが、日本ではほとんど混同されて扱われており、それ自体が日本社会のかかえる問題として対象化される必要がある—は、今日ややもすると「作られたもの」「創造されたもの」であることを指摘したところで議論そのものが止まっているような印象を受ける。研究者はその研究対象については反省的な態度をとるわけだが、自分自身の認識がどれだけ既存の言説の枠組みに制約されているかについては、きわめて疎いように感じられて仕方ないのである。日本語の場合は、おなじ発音で同時に異なる意味の言葉を表すことができるため、「ソウゾウされた」という言葉を発音したときには、ふたつの単語を思い浮かべることになる。ひとつは”invented”、もうひとつは”imagined”。周知のように前者はホブズボームの、後者はベネディクト・アンダーソンの言葉であり、それぞれ異なる含意を有する。しかし日本では、桂島宣弘がすでに指摘しているように、アンダーソンの議論が盛んに引き合いに出されているにもかかわらず、実際にはホブズボームの言う意味での「創られた」作為性を確認するという行為に終始する傾向にある。国民国家と同様に、「宗教」という概念も「国語」という概念も近代において創造された。「文学」も「国史」という概念も近代に作られたのだ、と。そこでは何を題材にとっても、「どのような概念もネイションと結びついて、均質的な共同性を作り上げる場として近代につくられたのだ」と、結局はおなじ結論に落ち着くことになってしまう。それは初めから決まっている答えを確認するだけの不毛な作業に見えもするが—一方でそれが実証的研究だと誤解している研究者もいる—、実は、このような論法自体が、日本の学問状況を理解するうえで極めて興味深い材料を提供してくれている。均質な共同体としての「ネイション」という規定は、今日流行している「言説」論と均質さという点で共通するものである。一般に日本の歴史・思想研究でもちいられる「言説」という語は、内部が等質さで充填されたものという意味で用いられることが多く、ネイションと同様に、「均質なhomogeneous」性質をもつものと理解されているように思われる。ところが、日本の研究者がネイションを論じるときに依拠するアンダーソンはこの「均質な」という言葉を「均質で空洞な時間homogeneous empty time」という定形句のなかで、つねに「時間」という名詞に掛かる形容詞としてのみ用いている。アンダーソンの『想像の共同体Imagined Community』を読むかぎり、均質という言葉には否定的な意味は込められていない。一方で、日本の研究者が「均質な言説」や「均質な共同体」という言葉をもちいるときには、差異や個性を抑圧する否定的な意味での等質さが含意されることが多い。その点から考えれば、日本におけるネイション論と言説論の両者が現在盛行しているという事態は偶然的なことではなく、否定的な意味での均質さを批判しようとする点で同じ価値観に根ざすものといえよう。そこでは、ネイションという共同体そのものが、均質な言説と目されているのだ。さて、アンダーソンはその著書『想像の共同体』(1983年、日本語訳1987年)のなかで、アーネスト・ゲルナーのネイション論(『ネイション・アンド・ナショナリズム』1983年、日本語訳2000年)との違いについて、次のように述べている。「ナショナリズムは国民の自意識の覚醒ではない。ナショナリズムは、もともと存在していないところに国民を創造するinventsことだ。」ゲルナーのこの規定は、少々過激であっても、実はわたしと同じことを言っている。もっとも、この規定の欠点は、彼が、ナショナリズムとは偽りの仮装であることを言いたいあまり、「創造invention」を、「想像imagining」と「産み出しcreation」にではなく、「捏造fabrication」と「偽造Falsity」になぞらえたことにある。そうすることで彼は、国民と並べてそれよりもっと「真実」の共同体が存在するのだと言おうとする。ここでアンダーソンは、「創造invention」という言葉は二つの解釈が可能であり、ひとつはゲルナーのように歴史的根拠性をもたない「捏造fabrication」と解すること、もうひとつはアンダーソンのように積極的に歴史のなかで産出(creation)してゆく「想像imagining」であると示唆している。アンダーソンの立場は、「日々顔付き合わせる原初的な村落より大きいすべての共同体は(そして本当はおそらく、そうした原初的村落すら)想像されたものである。共同体は、その真偽によってではなく、それが想像されるスタイルによって区別される。」という発言において明白である。あらゆる共同体は、いかなる原始社会あるいは未開社会にあっても、想像力を介在させることで、そのつどの新たな時間相のもとに作り出されるものであり、あらゆる歴史現象は時間的変化相のもとに現れ出でる創造の産物でしかないことになるのである。私たちの心のなかに想像されたものだけリアルなものとして現出していく。その意味で創られたものこそがリアリティをもつのであり、その作為性だけを取り上げて歴史的な本来性を欠いていると論っても仕方ないということになる。その意味では、ゲルナーのいうような、歴史的な変化を被らない本当の共同体、想像を介さない直接性の共同体など、どこにも存在したことはないし、これからも現出することもないということになる。つまり、あらゆる歴史的現象はすべてその時々に創造されているわけだから—元来、「歴史的」という言葉は連続性と断絶性の両要素を包摂する両義的なものであるが—、たんに個々の歴史的事象の作為性を指摘しただけでは、当初は斬新に映じても、一度、歴史本質主義(essentialism on history)的な思考から距離がとれるようになってしまえば、それほど意味のある作業には映じなくなってしまう。むしろ、そのような作為性を指摘する言表行為そのものが、皮肉にも均質化された言葉へと失墜していく可能性を孕んでいる。そういう点で、創造あるいは想像という言葉をわたしたちがそれぞれどのような意味で使っているのか、そのことを自覚的に吟味しなければなるまい。歴史的事象の作為性を指摘することで、それを見抜いた自分たちが、その歴史的制約の外部に実体的なかたちで立てるのだと錯覚してしまうならば、それ自体が自己超越化の病に取りつかれてしまっており、きわめて危険な事態だといえる。その端的な例がかつての宗教学である。宗教学は神学や信仰者のはらむドグマ性を批判することで自己形成を遂げてきた部分が少なからずあるが、この批判行為そのものが、このような批判ができる宗教学者こそが超越的認識に到達できるのだという幻想を招き寄せてしまうのである。そのような錯覚に落ち込まないためには、均質な言説の存在をいたるものに再確認するだけでなく、言説論の枠組みそのものを捉えなおしていく作業が必要になる。歴史研究の分野にネイション論や言説論が導入されると、それが悪しき意味での実証主義によって実体化されてしまうことがしばしばあり、さまざまな範疇が近代にネイションと結びついて作られたことだけが繰り返し指摘されるにとどまり、そうすることによってかえってネイションや言説という範疇の内実は不問にされ、議論の枠組みそのものは自明視され固定化されてしまう。もしも本当に実証主義が批判的な機能を保持しているのであれば、過去の資料との対話を通して、現在の認識者たちの枠組みのほうが変化をきたさざるをえなくなるという過程に、資料の読解行為の意味が存するのであり、認識者の既成の枠組みのなかに資料の余剰性を押し込めるというようなことであってはならないはずである。それは、実証か理論か、などという単純な二分法で片づけられるものではなく、実証主義を徹底化させたときにこそ、理論的反省がその流れのうちから勢い生じてくるのだと理解すべきものなのである。かつての新カント派やディルタイのような自然科学と人文科学という明快な二分法が成り立たなくなって久しい現在では、主観性を形成する地平の内部でこそ、客観的な態度が要求されている。私自身をふくめ、多くの研究者がこの岐路に立たされているのである。宗教研究の場合で言えば、特定宗派に囚われた神学/客観性に開かれた宗教学、というような単純な二項対立はもはや成り立ちえず、神学者も宗教学者もともに自分の拠って立つ主観的な地平を客観的に対象化するところから議論を始めるべきなのだ。言説論の問題以上の点をふまえて、言説論について、もうすこし踏み込んで考えてみたい。日本で一般的に論及される言説論というのは、均質な認識の枠組みをつくりあげるものという点で、フーコーの『言葉と物』(1966年、日本語訳1976年)や『知の考古学』(1969年、日本語訳1970年)、あるいはエドワード・サイードの『オリエンタリズム』(1978年、日本語訳1986年)の影響を強く受けてきた。それはすでに触れたように、「均質さthe homogeneous」を内実とする点で、日本におけるネイション論と密接な親和性を有している。ところが、これも指摘したように、ネイション論の代表的論客であるアンダーソンはネイションを形容するさいに「均質なhomogeneous」という言葉は一切用いていない。彼がネイションに対して用いるのは、「水平なhorizontal」という言葉である。この形容詞を「水平な共同体horizontal community」というように、ネイションという空間の特質を表現するために用いている。その対語として措定されたのが「垂直なvertical」という言葉である。垂直な共同体というのは、人間の上方に神が存在しており、その神とわたしたち人間が垂直の上下関係を結び合っていることを意味する。アンダーソンはアイルランド系の出自であるから、キリスト教的な宗教のイメージにもとづくものであろう。アンダーソンの理解では、西洋では中世までの宗教共同体が衰退した後に、それに代わって国民共同体が人びとの心を充たすものになったことになっている。人間との垂直関係にあったキリスト教的な神が衰えたことで、人びと同士の横のつながりによる水平な共同体、ネイションが誕生したというわけである。そのような対等な意識を築きあげる上で決定的な役割を果たしたのが、資本主義と結びついた印刷物の大量生産ということになる。アンダーソンは近代ネイションの時間感覚を指して「均質で空洞な時間」と呼んだわけだが、そこで言う「空洞なempty」とは神の不在を指している。垂直な上方に鎮座する神が消えた空間では、さまざまなものが入りこめる空洞な空間が開かれるのだ、神が消えたがゆえに我われ人間は直接に同等な存在として横の関係を結びえるようになったのだということである。だとすれば、「均質な」という言葉は、アンダーソンの著作に関しては抑圧的で否定的な意味合いのものではなく、人々を結びつけることを可能にした均質な時間という意味で、中立的あるいは肯定的な言葉といえる。事実、『想像の共同体』を丹念に読むならば、アンダーソンがネイションを否定的に捉えているわけではないことも得心がいくはずである。それにも拘らず、日本の歴史研究者の多くがアンダーソンの議論をネイション批判として受取ってしまっているのは、そこに日本独自の知的社会の文脈が介在しているからだと思われる。西谷修が既に『ナショナリズム論の名著50』のなかで指摘しているように、日本の研究者はややもすればネイション(nation)論を国民国家(nation-state)論と同じものと受けとってしまいがちである。ネイション論が共同体を人と人の横のつながりから把握しようとするのに対して、国民国家論というのはあくまで国家論であり、国家機構が維持しようとする支配者/被支配者という上下関係から社会を捉えようとする。ただ、そのような国家のもつ縦の関係が、ネイションのもつ横のつながりによって隠蔽されてしまうことを批判しているのである。その点で、ネイション論を国民国家論に引きつけて理解する傾向にある日本の議論は、やはりマルクス主義の知的土壌のうえに展開されたものであるように思われる。これほどアンダーソンの「想像の共同体」という言葉が人口に膾炙していながらも、実際に議論されているのは、むしろ、国家とネイションの交差点を問題化するゲルナーの視点にきわめて近いものなのである。そこにも国民による「想像」という言葉が、国家による国民の「創造」、すなわち幻想の捏造へと転化されてゆく様を見てとれる。勿論、抑圧的な均質さに対する嫌悪感もまた、日本の知識人には根強く見られるのだが、その含意自体が意識の俎上に一度はあげられなければならないはずである。さて、アンダーソンにとって「均質な」という言葉のもつ意味を、異なる文脈へと移し替え、ネイション論のなかに持ち込んだのは、脱構築派のポスト植民地主義研究者のホミ・バーバらだと思われる。バーバは「均質なhomogeneous」という言葉を、「異質なheterogeneous」の対語として用いる。それは、同質さと異質さとして言い換えることもできよう。ともあれ、この対概念はすでに日本の知識社会でもおなじみの言葉になっている。アンダーソンの場合は、「均質な」は「時間」に掛かる言葉であるため、その対語として「異質な」という言葉は出てこない。元来、この”homogeneous / heterogeneous”という対概念は、フランスの社会学者エミール・デュルケムに遡るものであり、それをジョルジュ・バタイユが異なる文脈に読み替えたのちに、ジャック・デリダらフランスの脱構築派へ、さらにはホミ・バーバらのポスト植民地主義のネイション論へと受けつがれていったと考えられる。そこで言われる均質さ(=同質さ)というのは、ある種の密封されて抑圧化された状態を指している。それに対して、このような均質さに収まらないものを異質さと呼ぶのである。ここまで来れば、アンダーソンがネイションの空間を形容して用いた”horizontal / vertical ”という対語と、バーバの”homogeneous / heterogeneous”では問題軸の設定が異なるということは容易に理解されよう。ちなみに、アンダーソンは”heterogeneous”という言葉は『想像の共同体』のなかでは一切用いていないし、彼のいう「均質で空洞な時間」という言葉は、フランス系思想の流れではなく、ユダヤ系のドイツ人であるヴォルター・ベンヤミンの論文「歴史の概念について」に由来するものである。ただし、アンダーソンのベンヤミン理解というのは、この言葉にかぎらず、歴史的時空の隙間に思いを馳せるベンヤミンの議論を現実の時空間のなかへと実体化して引きずり下ろすものであるから、意図的かどうかは別にして、アンダーソンの誤読作業によってもたらされたものである。ベンヤミン自身の時間の隙間への関心は、むしろデリダやバーバに引き継がれている。その点から今日のネイション論を評すれば、アンダーソンは水平な共同性としてネイションを肯定的あるいは中立的に捉えるのに対し、バーバは同質性と異質性からなる両義的なものとして、そして後で触れる酒井直樹はバーバと共通する思想的背景に立ちながらも、この両義性のうちの同質性に焦点を当てて議論を展開しているということになる。いずれにせよ、このように本来細心の読解を必要とするアンダーソンの用語法を、日本の研究者は安易に取り扱い、「均質」も「水平」も同じ意味のものとして受けてとめてしまいがちなのである。言説論に戻って言えば、「言説とは均質な認識である」と述べるとき、これまでの議論を念頭において考えるならば、本当はさまざまな意味の取り方が可能になるはずである。たとえばフーコーにおいても、後期の著作『性の歴史1 知への意志』(1976年、日本語訳1986年)になると、言説というのは多様な力が拮抗し合い、周りめぐる場であると発言している。様々な力が拮抗し合っているために、そこで同質化しようとする力が働いたときには、その均質さに収まりきれない別の諸力が湧き上がって抵抗が起きるというふうに理解することができるのだ。同様のことは、ホミ・バーバが『文化の場所』(1994年、日本語訳2005年)のなかで、サイードのオリエンタリズム論を批判するなかで、言説の性質について述べていることにも共通する。フーコーやバーバは言説がその内部に異質性(heterogeneousity)を不可避にはらむものだと捉える。逆に、均質な場として言説を理解する立場のもとでは、均質で密封されてしまい、言説の内側からは抵抗が湧き上がってくることができない場とされてしまうのである。言説の内部が均質に密封されているとするならば、その内側に諸力のせめぎ合う場が存在することはありえず、抵抗する力が内から湧き上がることが想定できなくなる。合衆国におけるオリエンタリズム的言説の根強さに対する、サイードの絶望的ともいえる抗議の激しさ—とくにそれは『オリエンタリズム 二十五周年記念版』(2003年)で付け加えられた序文に顕著に現れている—は、このような言説のもつ密封性に対する彼の懸念をよく表しているようにもみえる。このような内閉的な言説理解は、フーコーの『言葉と物』やサイードの『オリエンタリズム』などの紹介を通じて、日本で培われていったものと考えられる。しかし、なんといっても日本の言説論に決定的な役割を果たしたのは、柄谷行人の『日本近代文学の起源』(1980年)である。この本は近代における「内面」なるものの出現過程を言文一致体という文章制度と結びつけて説明づけたもので、文芸批評の分野だけでなく、歴史学や思想史など、様々な分野に方法論的変化をもたらした。この本のなかで柄谷はまだ「言説」という言葉を用いてはいないが、そこで主題として取り上げた「内面」なるものを、なだらかに均質化された場という意味で、すでに言説のひとつとして措定していると考えられる。1985年から連載された『探求』のように、「内/外」という完全に二分法的な立場が明確に打ち出されているわけではないが、すでに『日本近代文学の起源』の段階でも、柄谷は「内部」というものを、完璧に密封された抵抗の契機をもたない場として位置づけている。柄谷のように、共同体には内側と外側を分かつ明確な境界線があり、その内側が均質に密封されてしまっていると考える立場では、抵抗する力が内側から発生することは想定しにくくなる。そこで均質化された内部を崩していくために、『探求』では外側との「交通」が求められ、「外部性」という超越論的批判の視点をもつことが説かれることになる。文芸評論家の小林秀雄とマルクス主義者の福本和夫が高く評価されるのも、そのような観点からである。さらにプロテスタント的な宗教論が展開され、神の絶対性・超越性と重ね合わせるかたちで「外部性」という理念が提示され、共同体の「内部」と対峙させることが試みられていく。彼にとって外部性は「外部」と混同されるものであってはならず、共同体の内部に回収されることのない超絶的な理念性が実体化されたとき、外部「性」は単なる外部へと転落し、偶像崇拝が起こるとされる。柄谷にとって「差異difference」というのは、この外部性のもたらす共同体間の交通のことなのである。ここで注意したいのは、彼にとっての差異とは、均質化された共同体と共同体のあいだの差として、均質化された単体間の違いを意味するということである。それは文化多元主義のような立場であり、私は私として、あなたはあなたとして明確なまとまりをもった存在であり—それを柄谷は単独性(singularity)と呼ぶ—、それぞれのまとまりを自明の前提としたうえで違いを認めるというもののように思われる。それは『探求』以降の柄谷が、デリダやドゥルーズら脱構築派を低く評価することとも無縁ではない。柄谷のように、自同性(self identification)の発想に立つものからすれば、デリダらの差異の理解は当然認められないことになろう。そして、このような内部と外部性という非対称性は、柄谷にとって現実の共同体と重ね合わせられたものであったらしく、均質化された内部は日本へと、交通の場としての外部性は合衆国へと、理念化されると同時に具体化された姿として思い描かれることになる。このように均質化された言説の内部を実体視する姿勢は、アナール派にとっての心性やマルクス主義の経済と同様に、日本にかぎらず、歴史研究においては強くみられる傾向である。しばしば指摘されるように、フーコー自身も実証主義と紙一重のところがあるし、言説論はややもすると一般の思想史や観念史(history of ideas)となんら変わるところのないものになりかねない。言説が私たちの認識の外側に実体として存在するものとして描き出されてしまうならば、そのような外部に屹立する実体性と、認識主体としての我々を超越化しようとする願望は容易に共犯関係に陥ってしまうのである。たとえば、島薗進氏は拙著『近代日本の宗教言説とその系譜』の書評のなかで、西洋から入ってきた宗教概念を論じるだけでは、その概念に回収しきれるはずのない日本の宗教現象を理解することはできないと述べている。その指摘の通りなのだが、その場合、西洋の宗教概念を表層的なものと見做す一方で、そこに収まらないものをその下に存在する土台として、近世儒学の流れを汲む「宗教構造」と実体的に呼び表してしまうところに問題があるように思える。かれが用いる宗教「構造」という概念は、デリダが批判したようなレヴィ=ストロース流の構造主義の意味合いを明白にもつ実体的なものである。そこでは宗教概念という言説の外側に、実体として把握可能な宗教構造が存在することになり、復古的な土着主義の考え方へとつながる可能性をはらんでしまう。言説の内側と外側という明確な境界線が引かれることで、内側と同時に、回収不能な外側も実体化されてしまうのだ。この内と外、均質化された内部という考え方は後でもう少し論じてみたいが、とりあえず、ここではサイードや柄谷の流れを汲む言説論が日本の歴史研究に強い影響を与えているが、それは日本の外側で論じられている言説論のごく一部のものが特化されたものだということを確認しておきたい。それがなぜ日本において力をもったのかということ自体が、日本の知識層を理解する鍵として、今後議論されてゆかなければならないであろう。その一方で、柄谷がこのような思考を展開しえたのも、かれが合衆国と日本の狭間に身を置いたがゆえであり、サイードにとっての<パレスチナ/合衆国>、バーバの<インド/大英帝国>、アンダーソンの<東南アジア/アイルランド>、さらには国民国家論の代表的論客である西川長夫にとっての<満州/日本>という対比のように、ネイションをはじめとする言説の諸問題はその帰属性を自分の体験のなかで問題化しえる環境にあって批判可能になるものと思われる。勿論、そのさいに喚起される反応というものは、人によって様々であり、<自分/他者>という二項対立が容易に想起されてしまうこともあれば、そのように外在化される他者性自体が微分化されていくこともあり、その選択肢こそが問われなければならないのである。

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